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【苦しみの中で生きる理由】

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生きている理由を問いたくなるほど

耐えがたい絶望の中で生かされているのなら
いっそ殺してほしいのに生きている

自分で死ぬこともできず
ただ生きている状態
それでも 
なぜ生きなくてはならないのでしょうか?

もういいじゃないですか
もう精一杯生きたから
もし この先 幸せになれると言われても
そんなものは、もうどうでもよくて
 今すぐにでも この苦しみから逃れたい

なぜ 私ばかりが
こんなに苦しい思いをしなければならないのか

自ら選んだわけでもないのに生まれてきて
病気 事故 大切な人との別れ 
嫌いな人との出会い 拘束
死の恐怖 お金や生活の不安
もう 一切が嫌になって 

毎日 何処で死のうか
どのように死のうか
いつ死のうかと   。。。
そればっかり考えていたことがありました。

もう 生きるのに疲れ果てて
何もかもが嫌になって 大切な子供さえどうでもよくなって
この世から消えて居なくなりたかった時期がありました。

しかし
今 自然な形で その時の苦しみ
一つ一つを卒業し 束の間かもしれない 幸せを 今 感じています。

「苦しみは、幸せを感じる為に用意されたもの」だと聞きました。

苦しみのさなかで聞いたとしても 「そんな事は、どうでもいい」
腹立たしく感じた事です。

最近 奈良県吉野の大峯山で、1999年に千日回峰行を成した塩沼亮潤大阿闍梨(りょうじゅんだいあじゃり)さんのYouTubeをいろいろと観ています。

私が、死にたいと思って居た時に
天台宗大阿闍梨(だいあじゃり)の酒井雄哉(ゆうさい)さんの
本をよく読んでいました。

どうしたらこの苦しみから逃れられるのか?と
絶望の中でいる時に 敢えて死と紙一重の荒行
自ら選ぶその心理が知りたくて

その当時は、YouTubeも無かったので酒井雄哉さんの本は、何度も読みました。

何回 読んでも分からなかったです。
分からなかったけれども 何回も 何回も読みました。

なぜ 生きるのか?
なぜ 苦しみに耐えるのかが知りたくて

逃れたい 逃げたいと言う苦しみ それしかなかったので

その先に あるかもしれない幸せなんてどうでも良かったのです。
そのくらい その時は、辛かったのです。

でも 今 振り返ると
あの時に死んでいたら 今は、ありません。

子供たちも幸せかどうか不明です。

苦しみの中で生き続けたからこそ今があります。

苦しみを伴わない中で 生活出来ていたら良かったのか?

全てが自分の思い通りで それを 当たり前にして 感謝の無い自分で
居たかもしれないと思うとそれも怖い気がします。

それは、嫌です。

苦しみがあるから 喜びがある

苦しみと言えば 私のお産は、どの子も苦しかったです。
特に長男は、3日も陣痛が続いて意識がもうろうとした中でやっと生まれた子です。

初めて子供を抱いた時は、嬉しかったです。

苦しければ、苦しい程 嬉しいのかもしれません。

辛い時があるからこそ 喜びが深くなる
諦めなければ、

途中どんなにギリギリで 生死を彷徨う様な
危険な状態であったとしても

生きてさえいれば、何とか 諸行無常の中で
 幸せ や喜びが、必ず訪れるのだと思います。

それを、大切な人に伝えるために 
それを、未来に生かすために

自分だけの苦しみで終わらない為に
今の苦しみがあるのかもしれないのです。

そして、一人で苦しんでいたんじゃなかった事を
知るために 

苦しみの中では、自分一人が苦しかった様に感じていましたが

通り過ぎたから 感じる事があります。

立場を変えて 別の視点から見たら
私の周りで苦しんでいた人が何人もいました。
私が、苦しんでいた時に、
一緒に苦しんで乗り越えてくれた存在が見えてきました。

変な形で 切ってしまわなくてよかったと思います。
自然な形で卒業して来れたことに感謝いたします。

感謝を学ぶ為に 苦しみが与えられるのでしょうか?

感謝を伝える為に 生死を彷徨う様な 苦行を敢えて選ばれるのでしょうか?

苦しみを乗り越えた幸せを お裾分けしていただける事で 今の私が生きているのですから
やはり 幸せを循環させるために 苦しみが与えられるのかもしれませんね。

逃げずに受け入れる工夫を一緒に考え祈れますように。

カウンセリングルーム雅流望(ミナミ)