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【異常性は、うすうす気づいている】

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私が、小学校の頃は左利きの子って
クラスに一人か二人しかいませんでした。

家の次男は、生れた時から左利きでした。
私が、あれ~って気が付いたのは

まだ、よちよち歩きの頃ですが

砂場でスコップを持つ手が
なぜか左手。直しても左に持ち替える
そのうち、ボールを蹴るのも左足

姑に、「ちゃんと親が教えてやらなければダメだ」と
何度も言われましたが

どんなに直そうと思っても
左を使うので、私なりにだいぶ悩んで、
図書館に行って左利きについて調べた記憶があります。

昔と違って左利きは、
今でこそ一般的になっていますが
ほんの一昔前は、恥ずかしい事といった認識も
あったように思います。

その時に思いました。

これは、「親が教えなかったから」だけではない。

生れた時に既に持ち合わせていたもの

個性や宿命、性格などです。

環境や、親の育て方など
まだ知らない
お母さんのお腹の羊水の中にいた赤ちゃんが
初めて、空気を吸って鳴き声をあげたその瞬間から
既に持ち合わせているもの

そんな、生まれ持った気質
どのように活かすのか?

それが、親だったり
環境だったり、出逢いだったり

そして、自分の意志や想いが
統合されて

“今ここ”の自分を
作っているのでは、ないでしょうか?

生れた時に既に持ち合わせている
自分らしさ を
どのように活かすかは、

その親と その人
どれだけ自分自身を知っているのか?って大きいと思います。

大人になってからは、どれだけ自分を知っているのか?だと思います。

人のせいにしない所から見えてくる
自分自身

そこから、見える弱さや、狡さ、汚さ、も含めた見方で
自分を知る。活かす。

道徳や倫理は、一つですが
その活かし方や成功の形は個人個人別にあるのだと思います。

今朝の、ニュースも新潟市立小針小学校2年の女の子が
殺害され線路上に遺棄された事件

犯人とされる近所の20代の男性の家庭を
想像するのですが

母親や家族は、「もしかしたら、家の子かもしれない。」
「そうだったらどうしょう。」
「そうならなければいい」と
うすうす感じていたのでは、ないでしょうか?

これは、私の想像なのですが
何かしら、何となく感じる予感みたいなもので

その子の行動や言動の異常性をどこかで感じていながら
どうすることもできなかったのではないかと思います。

では、どうしたら良かったのだろうと言われると
一概にコレとは、言えませんが

本人が一番自分の異常性に気づいていたと思うのです。

だから、本人自身が恐ろしい事にならない様に
危機感をもって手立てを打つ事が、必要なのだと思います。

と、言うことは
「こんなことを、していたらいつか大変なことになる。」

「自分の感情が止められない」と言う自覚を持つこと

だから、どうして行くのか? 

 どのように工夫したらいいのか?

問題にぶつかる事です。

そのような異常性を持ち合わせながら
管理され、保護され、親元で不満を持ちながら

辛いのは、誰かのせい
親のせいだと 問題のすり替えをし

社会的責任を意識しないでいたら
時限爆弾が、刻々と恐ろしい事件に繋がっていくように思います。

親としては、攻撃性を持った子供は、攻撃性を活かして
過酷なスポーツなり、勉強なら超難関なコースに進むなり
ライバルを持ち誰にも負けないような活かし方を
させて行かなければ宿命が消化されません。

殺傷性の高い気質を活かして相手を打ちのめすまで戦うボクシングとか
格闘技は、血をみる事もある意味必要ですよね。

外科医だって、異常性のある特殊な能力だと思います。
人の体にメスを入れるのですから
私は、ムリムリです

それぞれの自分の活かし方がある気がします。

子供のころから、親がそれに気が付き活かしていければ
幸せだと思います。

しかし、そんな異常性を持ち合わせながら それを否定し
腫物に触る様に 箱の中に入れていつまでも親元においたら
本当に怖いです。

本人が、怖い思いをして自分の気質における
危機感を経験し認めなければならないのに

自分の異常な性格を親のせいにして
不満を持っていることは、とてもヤバい事なのかもしれません。

表面では、いい子で普通の顔をして暮らしていても
少しずつ、少しずつ 犯罪性が
高まって行くのでは、ないでしょうか?

中学、高校を過ぎる頃
既にうすうす気づいている自分が
必ずいたのではないかと思います。

そんな異常性を表では隠し
見ない様にフタをして年を取ってしまったら
本人も苦しみますが、親も苦しいはずです。

そして
それだけではなく、社会的にも怖い事です。

何も、関係のない人が被害に遭うのですから

だからこそ、小さい内から
個性の強い子どもこそ
冒険、苦労、失敗、挑戦を奪わない様にと
思います。

子供は、子供でありながら神様からの預かり者として
育てる。

私自身、親として特に考えさせられる事件でした。

カウンセリングルーム雅流望(ミナミ)